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「描く」ということ。

日本には、たくさんの「かく」という言葉が存在している。

いびきを「かく」胡坐を「かく」曲を「かく」

挙げだすと本当にキリがない。

その中でも自分は絵を「描く」ことが好きだ。

社会人になってからというもの、過去のことをよく振り返るようになった。それは別に過去に帰りたいというわけではなくて、過去の自分を見つめることで、自分の気持ちを再確認して、この先の未来も同じ気持ちで生きていこうとしているからだと思う。ちょっと洒落た言葉を使うのなら、原風景とかいうのだろうか。

そんな風に、最近振り返ってよく思う。僕は子供の頃から絵を描くことが好きだった。昔から、人より少しうまく絵が描けた。幼稚園で「お絵かきクラブ」に入っていた頃から、今もそれは変わらない。ただ、こんなことをネット上で書くのは情けないけれど「少し」だということは自分が1番理解していた。

それを最初に感じたのは本当に大昔、幼稚園の頃。

新幹線が大好きなよくいる子供だった僕は、たくさんの絵を描いていたけど、どうしても斜めから見たアングルの新幹線のぞみが描けなくて、大好きなおじさんに頼んだ。

おじさんは別に絵の仕事をしているわけでもないけど、とてもうまく、サラサラと僕のリクエストに答えて、新幹線を綺麗に描いてみせた。嬉しかったけど、自分にはこれは描けないと子供ながらに感じて悔しかった。そのときの絵は、20年近くの時が経ったけど、僕の頭の中に今でも鮮明に残っている。今更描いてくれなんて言えないけど、僕の記憶が正しければ、未だに僕のはあの絵を越えられていない。

幼稚園で奇跡の初挫折wを人知れず経験し、でも絵は好きで描き続けた。

なぜこんなにも絵が好きなのか。決して僕は芸術が好きなわけじゃないし、価値の真贋がわかるような目なんて持ち合わせていない。だいたい、価値があると崇めているから大衆が価値を感じているだけで、多くの人間はなんの知識もなしに有名絵画を欲しいだのみたいだの思わないんじゃないか。

もちろん、ピカソのゲルニカやドラクロワの民衆を導く女神とかには、引き込まれる何かを感じる。教科書で初めて見たときから一発で頭に刷り込まれて離れない。発想力や画力、色彩のセンス。素人目に見ても後世に残っていく絵なんだろうなと思う。

ただ、例えばゴッホのひまわり。定期的に話題として上がってはくるけれど、いい絵だという感情が湧いたことがない。ゴッホに否定的なわけではなくて、ローヌ川の星月夜とかは幻想的で大好きだ。

でも、僕はたまにあるテキ屋で世界回っているおっさんが描いて売っている絵の方がよっぽど価値を感じる。芸術だと思う。自分を良く見せるために表面的な部分だけを見て、そういった目を持った気になって芸術家ぶるやつなんてクソだ。

例えば、キングコングの西野さんは本当に綺麗な絵を描くし、長い時間努力して数々の作品を作っているんだと思う。話題になった絵本は読んだ。絵はもちろんのこと、とても素晴らしい内容で、ジーンとなったけれど、本人の思考回路が透けて見えて泣けなかった。

彼からは「作品を描きたい、作り上げたい」という思いよりも、人によく思われたい、こんなことができる人だって思われたいって感情を強く感じる。立派なことだと思うし、人の世で生きていく以上、もちろんそれは付いて回る。だけど、こういう人がいることで芸術って言葉は急に胡散臭くなる。純度が低くなる。ほとんどが彼みたいなエセ芸術家なんじゃないかと思う。だから芸術って言葉は嫌いだ。

じゃあなぜ好きなのか。それはもう「絵」が好きだから以外にない。

。。。これではなんの答えにもならないので、少し考えてみた。

⑴自分の頭の中を映し出すことができる

想像力、といってしまうのは簡単だけれど、自分の考えている頭の中の景色を写真に撮ることはできない。もちろん当たり前だけど、子供の頃の僕はそれが疑問で仕方なかった。頭の中に確実にあるのに取り出せない、どうしたらいいんだと考えたときに「絵にすればいいんだ」と考えて描くようになった。うまく何かを説明できないとき、図を書いて説明するのだって同じこと。絵は、自分の頭の中を描き出すことができるから、好き。

⑵思い通りの世界を作れる

絵の中の世界に不自由はない。一度これを描くと決めてしまえばなんでも描ける。空を飛ぶこともできるし、好きなキャラクターと並ぶこともできる。嫌いな人を奴隷にして、自分は国王になったっていい。普段は高くて買えない服だって自由に着ることができる。。。思うがままの世界を描き出していける、こんなに自由な表現方法はない。だから絵が好き。ちなみに、友達の顔とか描くときは気付いたらその描いている絵の表情になっています。

⑶自分の見ている何かを表現できる

自分の見ているこの景色は、他の人から見ても本当に同じなのか。そんなことを考えたことは誰もがあるはず。僕も常々考えていた。例えその目に映る景色を「これこれこうだから同じものを見ている」って説明したところで、相手の目の映像が入ってくるわけじゃないから、確かめる余地なんてない。だけど、自分の見ているものを絵にすれば、それは相手が本当は見れないはずの自分の目の映像を表現することになって、自分が見ている景色はこれだよ。と相手し示すことができる。今はカメラがあって、写真があるから、自分の見ている映像を簡単に人に見せることができる。でも、自分の目に入ってきているのはそんな無味乾燥なフィルムじゃ表現できないと思うことも、多々ある。「こんなもんじゃねえぞ」って。ときには、何かが霞んで見えるほど輝いて見えする。それを表現できるから、絵が好き。まぁもちろん、それすら相手の目の映像わかるわけじゃないから本当に見れているかは(以下略)

ざっと挙げてみるとこんなところになった。

いくらでも出てくるけれど、明日も早いから、ペースを上げよう。

そんなこんなで、僕は絵が好きなので、例えば小学生の頃、図画工作の授業が時間割にある日は1日そわそわしていたし、一度授業が始まれば45分の普段は長い長い授業が10分に感じた。

思い返して強く思うのは、本当にやりたいことをやっているときは、びっくりするほど時間が経つのが早いということ。相対性理論という言葉で片付けると何か味気ないけれど、小学生の図画工作の時間から僕はそれを学び、今でも何か一度デザインを始めたら止まらない。気づけば7、8時間平気で過ぎている日だってある。普段の時間の流れと同じようには思えない。

このブログを読んでくれている人にとってもそれぞれあるはずで、それは大切な人と過ごす時間かもしれないし、漫画を読んでいる時間かもしれない。

生きていれば常に時間に左右される。明日の仕事の時間に、学校の時間に左右され、アポイントの時間に左右され、休憩時間に、退勤時間に、ありとあらゆる制限を食らうことになる。何をしてたって手には腕時計、ポケットには携帯が入っていて、離れられることはない。

ただ、その中で、「あれ?気づけばこんな時間?」と思わせてくれる何かが、あなたの心を、体を、時間から解き放ってくれている。僕はそう感じている。信じている。

大げさに聞こえるかもしれないが、あなたにとってそんな存在はいくつあるだろうか。

人生は、何かを成すにはあまりに短く、何もせぬにはあまりに長い。

というよくある言葉の意味は、もちろん何かを極めて成し得るのは並大抵の時間ではできないという意味だ。しかし、何かに熱中することで、短く感じるということも同時に意味しているのかもしれない。自分が集中できる何か、自分が熱中できる何か、一瞬で時間が過ぎていくような何かを見つけることは、きっと人の幸せを大きく左右する。

特に僕にとってすぐ時間が経つのは、

絵を、デザインを描いているとき。

大切な人と過ごしているとき。

最近だと、仕事で提案の企画書を書いているとき。

そしてこうやって文章を書いているとき。

そう、実際に今こうやって書いているように、文を「書く」のも好きだ。

現に、この文章は2:10に書き始めたのだけれど、すでに時計は4時を回っている。ということは、モニターを見つめて2時間、ひたすら文章を書いているわけだ。しかし、体感時間は10分程度だ。

文章についても書きたいことが浮かんできたけれど、今日の僕の時間からに離脱はこの程度にして、これはまた次の機会に書こうと思う。

まとまりのない文章を長々と読んで下さり、ありがとうございます。